太平洋戦争が激化してきた昭和18年(1943)10月、陸軍省から今井村役場に関係者が集められ、その 場で飛行場範囲が示された。その月のうちに笹賀国民学校に関係する地主が召集され、耕地・山林など 200町歩以上に及ぶ飛行場用地買収に調印させられた。10月には測量が始り、19年2月下旬から整地工 事が開始された。 工事には、中信地区の翼賛壮年団をはじめ近傍の住民、学生、児童までが勤労動員され、さらには多く の朝鮮の人々も動員されたため、その数は延べ十数万人であったと、終戦直後の新聞は伝えている。兵舎 や格納庫を建てるために動員された大工や鳶職は、広く南信一円にまで及んだ。 陸軍飛行場が完成したのは昭和20年8月であるが、滑走路はそれ以前に利用可能であり、3月には当時 浅間温泉に滞在していた特攻隊の隊員達がこの飛行場から飛び立っている。また、「赤トンボ」とよばれる 練習機による訓練も行われていた。 飛行場の施設は、現在の菅野小・中学校・住宅地の場所に事務所や6棟の格納庫等が集中し、その西 に現在の幅の広い道路と重なる滑走路、さらにその西に広がる広大な草地の方形区画部分、さらにその 南の松林の中に向かう誘導路と多くの掩体壕があった。 本土爆撃がはげしくなると格納庫は目立つため、陸軍により2棟が破壊されたが、残りの4棟は、終戦時ま で三菱重工業名古屋製作所の組立工場として使用された。 終戦後、飛行場に使用された土地の多くは農地に戻され、かつての滑走路は、菅野小学校西側の道路 となり、格納庫などが置かれた土地は、住宅地となっている。また、格納庫などのコンクリート基礎の一部は 菅野小学校グラウンドの基礎を兼ねており、現在でも確認することができる。 2012年8月 松 本 市 |
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